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特集記事 & レポート - オーストラリアで最初の稲作事業に成功した日本人、高須賀譲
オーストラリアで最初の稲作事業に成功した日本人、高須賀譲
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メルボルンより北へ約350km離れた所にスワンヒルという農業中心の小さな町があります。そこよりさらに30km北上すると、つい見逃してしまう程、目立たないストリート名の標識でForest Rd to Takasuka Bankと書かれています。ここは、オーストラリアで初めて稲作を成功させた日本人、高須賀穣の第二の故郷でもあるのです。 高須賀穣(1865-1940、通称ジョー)は愛媛県松山市出身で、大名に仕える侍でもありました。アメリカでの留学経験を経て、家族と共に1905年3月14日にメルボルンに到着しました。当時は差別的な「白豪主義」移民制限法が施行されていた時でもありました。 メルボルンに来て最初の18ヶ月間、ジョーはリッチモンド郊外で輸入業を営むかたわら、余暇を利用して日本語も教えていました。 ある時、ジョーはオーストラリアに持ち込まれる大量の米に注目し、現地での栽培が可能であると確信しました。その後、持ち前の政治手腕と決意を持って当時の州知事トーマス・ベントを説得し、マレー川流域スワンヒル下流の200エーカーの土地占有権獲得に成功しました。この土地は日本の稲作の土地と似ており、粘土ローム層でできており、灌漑もマレー川から定期的に行う事ができる土地でした。しかし、毎年春になると雪解け水が川に流れ込み洪水を引き起こすため農業には向いていない土地として長い間放置されていた土地でもあったのです。その土地でジョーは約6年間稲作が成功するまで洪水や不作と格闘しました。そして遂に1912年に1エーカーあたり1トンの収穫をあげることに成功しました。これにより、地元紙「エイジ」にも記事が掲載され稲作産業が将来大いに発展する見込みがあることが多くの人々に知れ渡りました。 その後、ジョーは義母の葬式に参列するために日本に帰った1940年に故郷、松山にて心臓発作のために亡くなりました。高須賀家の子供達は、それぞれオーストラリアの会社事業や職業上において高名を成し遂げていきました。特に息子のショーは、1934年にスワンヒル病院の総長になり、1938年にはビクトリア州フォスタービルにてトマト栽培に成功、第二次世界大戦が勃発すると義勇防衛軍にも入隊しました。 現在、高須賀氏が洪水を防ぐために作られた通称高須賀バンクの場所に、記念碑が建てられ、数種類のタカスカ米がメルボルン博物館に、そして妻のイチコの日記やその他一族に関する記録が、スワンヒル開拓博物館(現在ディスプレイ準備中)に保存されています。オーストラリアの南東部で米の商業的栽培に初の成功をもたらした、高須賀一家の偉大なる開拓者精神もまた遺書として残されています。 レポート:2001年11月1日(上田) |
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晩年の高須賀穣 |
高須賀バンクにある記念碑 |
Takasuka Bankと書かれた道路標識 |
現在は道路の一部となっているTakasuka Bank |
高須賀譲の旅行許可証 |
昔のスワンヒルの町を再現したテーマパーク |